一月の行事2

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    一月の行事2

    一月の行事2
    左義長
    左義長(三毬杖・さぎちょう)とは、小正月に行われる火祭りの行事。
    地方によって呼び方が異なる(後述)。
    日本全国で広く見られる習俗だが、東京では江戸時代、万治、寛文と、火災予防のために禁止されて以降廃れた。
    1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を三四本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。
    その火で焼いた餅を食べるとその年の病を除くと言われている。
    また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われている。
    道祖神の祭りとされる地域が多い。
    民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。
    お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている。
    どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼きとも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。
    とんどを爆竹と当てて記述する文献もある。
    これは燃やす際に青竹が爆ぜることからつけられた当て字であろう。
    子供の祭りとされ、注連飾りなどの回収や組み立てなどを子供が行う。
    またそれは、小学校などでの子供会(町内会に相当)の行事として、地区ごとに開催される。
    地方によって焼かれるものの違いがある。
    だるまを焼くかどうか
    縁起物を祭りで焼く事により、それを天にかえす
    目がつぶれるとされ、祭りでは一切焼かない
    だるまそのものが登場しない
    橙(みかん)は代々続くようにと子孫繁栄を願った物を、燃やし易くする為に踏み潰す事が縁起上良くないとされる。
    実施する地域の分布図や形態については、川崎市民ミュージアムに展示がある。
    また、実施しない地域でも、ある特定の日にお札を焼く行事を執り行う地域がある(12月29日など)。
    最近はダイオキシン問題で取りやめているケースもある。
    神奈川県大磯町の左義長は重要無形民俗文化財に指定されている。


    起源

    起源
    『弁内侍日記』建長3年正月16日、『徒然草』にみえるから、鎌倉時代にはおこなわれていたらしい。
    起源は諸説あるが、有力なものは平安時代の宮中行事に求めるもの。
    小正月(正月十五日)、平安時代の宮中で、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖三本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたという行事があり、その年の吉凶などを占ったとされる。
    すなわち、山科家などから進献された葉竹を束ねたものを清涼殿東庭にたて、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供された。
    『故実拾要』によれば、まず烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃をし、ついで上下を着た大黒2人が笹の枝に白紙を切り下げたのを持ち、立ち向かって囃をし、ついで鬼の面をかぶった童子1人が金銀で左巻に画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶった童子2人が大鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口を着て小さい鞨鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃す。
    毬杖(ぎっちょう)三本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれた。
    これが民間に伝わり、現在の形になったとされる。
    どうして現在一般的な「左義長」という字があてられたのは、不明である。
     
    補足
    国民の祝日の成人の日が1月15日から1月の第2月曜日に変更されたことに伴い、地域によっては左義長を1月の第2日曜日または第2月曜日に実施するところもある。
    滋賀県近江八幡市の左義長まつりは3月14・15日に近い土日曜日に、担ぎ手の男性が信長の故事によって仮装し「チョウヤレ、マッセマッセ」のかけ声高く実施される。
    この左義長は据え置く左義長ではなく、三角錐の松明に『ダシ』と言われるその年の干支にちなんだ飾り物(五穀等で飾り付ける)を付け、松明の頭に『十二月』と言われる赤い短冊をつけた5〜6mの竹を差して担ぎまわる祭礼である。
    最終日の夜には担ぎ棒を除いて全て燃やしてしまう。
    国選択無形民俗文化財に選択されている。
    福井県勝山市の左義長まつりは毎年2月に行われており300年以上前から続いている。
    同じく女装した男性が太鼓を打ち叩き浮かれ踊る。
    岐阜県海津市の今尾の左義長も県重要無形民俗文化財に指定され毎年2月11日に盛大に行われている。
    また、夜になれば秋葉神社に参拝し残り火で餅を焼き、これを食すれば病魔除けになると言われている。


    鳥追い
    鳥追い
    鳥追い(とりおい)とは、小正月(1月14日 - 15日)に行われる年中行事のひとつ。
    主に東日本の農村において行われる行事で、田畑を鳥の被害から守ることを祈念して行われる。
    この行事は、主に子どもが主役となって行われ、地域によってやり方は異なるが、木や藁・正月に使われた注連縄などで小屋をつくり、その小屋を小正月の夜に燃やすものや、子どもたちが鳥追いの歌を歌いながら村の中を回ったり、村境まで行くものなどがある。
     
    なまはげ
    なまはげは、大晦日に秋田県の男鹿市と三種町、潟上市の一部の各家々で行われる伝統的な民俗行事。
    本来は小正月の行事であった。
    「男鹿(おが)のナマハゲ」として、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
    冬に囲炉裏(いろり)にあたっていると手足に「ナモミ」という低温火傷ができることがある。
    それを剥いで怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与える「ナモミはぎ」から「なまはげ」と呼ばれるようになった。

    一般的に、赤面がジジナマハゲ、青面がババナマハゲとされている(違う地域もある)。
    鬼の面、ケラミノ、ハバキを身に付け、大きな出刃包丁(あるいは鉈)を持ったなまはげが家々を訪れ、「泣ぐコはいねがー」という荒々しい声を発しながら怠け者、子供や初嫁を探して暴れる。
    主人はなまはげをなだめながら丁重にもてなす。
    大晦日のほかに「なまはげ柴灯(せど)まつり」が2月にあり、これは主に観光向け行事として親しまれている。
    こちらは、なまはげの着ているケラから落ちた藁を頭などに巻きつけると無病息災の御利益があるいわれている。
    似たような行事は、秋田県能代市のナゴメハギ、山形県遊佐町のアマハゲ、岩手県大船渡市三陸町吉浜のスネカなど、主に東北地方の沿岸部各地に存在し、北陸地方には能登のアマメハギが伝えられている。
    愛媛県宇和島地方でも、前述の低温火傷を「あまぶら」といって、あまぶらができるような怠け者が便所に入ると、「あまぶらこさぎ」という者があまぶらを取り去るという[1]。
    異形の神が脅して教訓を与える祭としては、鹿児島県薩摩川内市の甑島列島にもトシドンという類似の行事があり、トカラ列島の悪石島にはボゼ神の祭があることから、これらとなまはげを関連づける意見もある。
    一方で、なまはげのモデルは、漂流してきたものの、異形で異なる言葉から住民と交われず、人里離れた場所にひっそりと住み着いた外国人(白人)ではないかという説もある。
    ほかにも秋田には、漢の武帝が男鹿を訪れ、5匹の鬼を毎日のように使役していたが、正月15日だけは鬼たちが解き放たれて里を荒らし回ったという伝説があり、これらをなまはげの起源とする説もある[2] 2007年大晦日に飲酒酩酊状態となったなまはげ(に扮した男性)が温泉旅館の女性浴場に乱入する騒動が発生した[3]。
    これを受けて2008年1月、男鹿市ではなまはげの暴れ方に関する指針、いわゆる行動指針の策定のため、同市副市長伊藤正孝ら行政側と地区代表らが協議したが、マニュアル作成は見送られ、「伝統の原点へ回帰する」ことで決着、その後行政による指導はないと報じられた[4]。
       

    餅花
    餅花
    餅花(もちばな)とは、正月とくに小正月に、ヌルデ・エノキ・ヤナギなどの木に小さく切った餅や団子をさして飾るもの。
    一年の五穀豊穣を祈願する予祝の意味をもつとされる。
    左義長の行事で飾ったり、食べたりする地方も多い。
     
    餅花のいろいろ
    街頭に飾られる餅花(香川県東さぬき市引田)長野県などでは、枝垂れ柳を使って稲穂の垂れるかたちにつくり、豊作を表現している。
    これを稲の花とよぶ。
    粟穂稗穂(あわぼひえぼ)も同じ。
    岐阜県(主に高山市・飛騨市)では花餅(はなもち)と呼ばれ、正月の装飾用品として定着している。
    東日本一帯に広がるものに繭玉(まゆだま)がある。
    米の粉をカイコの繭のかたちにして木にさしたもの。
    養蚕に関連の深い道具などをいっしょに飾る地方もある。
    カイコの安全を祈願したものだが、これも餅花の一種である。
    小正月が終わる頃にもぎとり焼いて食べる。
     
    小豆粥
    小豆粥(あずきがゆ)とは、小豆を炊き込んだ粥。
    ハレの日に食せられる食べ物の1つである。
    小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。
    日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。
    中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。
    後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。
    これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている。
    『延喜式』によれば、小正月には宮中において米・小豆・粟・胡麻・黍・稗・?子(ムツオレグサ)の「七種粥」が食せられ、一般官人には米に小豆を入れたより簡素な「御粥」が振舞われている。
    これは七種粥が小豆粥に他の穀物を入れることで成立したものによるとする見方がある。
    また、紀貫之の『土佐日記』によれば、承平7年(935年)の1月15日(小正月)の朝に「あづきがゆ」を食したという記述が登場している。
    江戸時代には15日すなわち「望(もち)の日」の粥という語が転じて「餅(の日)」の粥と解せられ、小豆粥に餅に入れて食べる風習も行われるようになった。
    今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際に小豆粥や小豆雑煮で祝う風習のある地方が存在する[1]。
    大師講が行われる11月23日(現在は12月23日)にはそれぞれの家で長短不揃いのカヤの箸とともに小豆粥が供えられる。
    大師様が小豆粥を食する際に用いたと考えられた箸は、地方によっては講の後に魔除けや子女の学問・技術の向上のまじないなどに用いられた。
    同じく米と小豆を炊き込んだ赤飯との共通点が多く、いずれもハレの日に食されている他、赤飯に胡麻塩をふりかけるのは単なる味付けのみならず、古い時代に小豆粥に他の穀物を入れたのと同様であったと考えられている。

    人妻
    蘇民将来
    蘇民将来(そみんしょうらい 蘇民將來)とは近畿地方を中心に日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。
    古くは『釈日本紀』(卜部兼方 鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文の疫隈國社 に見えるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。
    すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来 こたんしょうらいとされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。
    後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。
    武塔神は速須佐雄能神(スサノオ)を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
    この逸話を基に岩手県内を始め各地に伝わる蘇民祭を始め、京都の八坂神社や伊勢・志摩地方の年中行事で厄除け祈願として、茅の輪潜りや蘇民将来護符の頒布、注連飾りなどの祭祀が盛んに行われている。
    また、川村湊は『牛頭天王と蘇民将来伝説』(作品社、2007年)にて武塔神(むとうしん)と妻女頗梨采女(はりさいじょ)の関係と朝鮮土俗宗教である巫堂(ムーダン)とバリ公主神話(パリ公主神話)の関係について関連があるではないかとの説を述べている。
    人妻としての役割が多大にあります。


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