三月の行事

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    三月の行事

    春休み
    春休み(はるやすみ)とは、学校等で年度末から年度始めにかけて設けられる春の長期休暇のことである。
    正式には学年末休業と学年始休業、あるいは2つを合わせて春季休業と呼称するが、一般に春休みと呼ばれている。
    大学および3学期制の学校では学期間の休みとなる。
    アメリカ、カナダなどでも、2月から4月中旬まで同時期の長期休暇があり、「スプリング・ブレイク、Spring break」と呼ばれている。
    4月を年度の始まりとみなす日本では年度の境目であり、年度の終了、または年度始めの準備期間としての意義がある。
    この時期になると、多くの百貨店、スーパーマーケット、ホームセンターなどでは、新入学や新生活のためのキャンペーンが設けられ、主に学用品(入学服、ランドセル、学習机など)や、一人暮らしに必要とされる家具、電気製品などの生活用品を買い求める姿が多く見られる。
    また、企業の年度替りの事情から、大規模な人事異動が行われることが多く、引越しの需要が多い時期でもある。
    なお、引越し等をしない者にとっては、文字通りの春季の休業となり、この時期に「春」という季節を十分に味わうことができる。
    この時期を利用して旅行などをする人も多い。
    春休みの旅行は、JR各社で青春18きっぷの発売・適用時期の一つとなること、JRの特急回数券などの特別企画乗車券が利用不可能になる時期(繁忙期)には通常含まれない(ゴールデンウィークは含まれる)などのメリットがある。
    一方、JR九州を除き指定席特急券が平常期の200円増しとなること、航空国内線では(正規運賃において)同様に割り増しとなるなどのデメリットもある。
    混雑はゴールデンウィークほど多くはない。
    そのため、同じ春季でも、ゴールデンウィークに比べて割安・閑散な旅行が期待できる。
    そのせいか園児・児童の場合は親子での旅行、学生の一人旅や仲間同士での旅行も多い。
    3月に学校を卒業した小学6年生・中学3年生・高校3年生・大学学部4年生などは、3月31日まではそれぞれ元の小学校・中学校・高等学校・大学に学籍がある。
    すなわち、卒業式後も3月31日までは子供料金(小学生)、あるいは学割(中学、高校、大学)の適用を受ける事が可能である。
    また、事件や事故に遭い、報道される際には「3月○日に○○を卒業した○年生(回生)の○○さん」などのように伝えられる。
    なお、学校における春季休業であるだけに、一部を除いた大多数の社会人(職業人)には与えられておらず、むしろ年度末・年度始めで普段より忙しいことも少なくない。
    このライフスタイルの違いゆえに、成人後の多くの人にとって、学校における春休みの存在感や自身の学校時代の春休みの記憶は、夏休みや冬休みのそれに比べて希薄な傾向にある。


    上巳

    上巳
    上巳(じょうし/じょうみ)とは、五節句の一つ。
    3月3日。
    旧暦の3月3日は桃の花が咲く季節であることから、桃の節句とも呼ばれる。
    「雛まつり」の起源は京の貴族階級の子女が、天皇の御所を模した御殿や飾り付けで遊んだ平安時代の「雛あそび」が始まりとされている。
    やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、行事となり「雛祭り」として発展して行った。
    その後、紙製の小さな人の形(形代(かたしろ))を作ってそれに穢れを移し、川や海に流して災厄を祓う祭礼になった。
    この風習は、現在でも「流し雛」として残っている。
    元々は、5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていたが、江戸時代ごろから、豪華な雛人形は女の子に属するものとされ、端午の節句(菖蒲の節句)は「尚武」にかけて男の子の節句とされるようになった。
     
    日付
    「上巳」は上旬の巳の日の意味であり、元々は3月上旬の巳の日であったが、古来中国の三国時代の魏より3月3日に行われるようになったと言われている。
     
    起源
    古来中国では、上巳の日に川で身を清め不浄を祓う習慣(上巳の祓)があった。
    これが平安時代に日本に取り入れられた。


    春分
    春分
    春分(しゅんぶん)は、二十四節気の1つ。
    3月21日ごろ。
    および、この日から清明までの期間。
    二月中。
    天文学では、太陽が春分点を通過した瞬間、すなわち太陽の視黄経が0度となった瞬間を春分と定義する。
    『暦便覧』に「日天の中を行て昼夜等分の時なり」と記されている通り、春分では昼夜の長さがほぼ同じになる。
    しかし、実際には、昼の方が夜よりも長い。
    日本付近では、年による差もあるが、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。
    これは、次の理由による。
    大気による屈折で太陽の位置が実際より上に見えるため
    詳細は「大気差」を参照
    太陽が上に見える角度の分、日出が早く、日没が遅くなる。
    屈折は太陽が地平線に近いほど大きくなる。
    国立天文台では、太陽が地平線付近にある時の、その角度を35分8秒と見積もっている。
    ここから計算される日出・日没の時間の差は約2分20秒である。
    太陽の上端が地平線と一致した時刻を日出あるいは日没と定義しているため
    これにより、太陽の半径の分、日出が早く、日没が遅くなる。
    ここから計算される日出・日没の時間の差は約1分5秒である。
    これらを合わせると、日出は、太陽の中心が地平線から上がるより3分25秒早く、日没は、太陽の中心が地平線より沈むより3分25秒遅くなる。
    したがって、春分の日の昼の長さは約12時間7分、夜の長さは約11時間53分である。
    そして、実際に昼夜の長さの差が最も小さくなる日は春分の4日程度前になる。
    春分を含む日には、太陽は真東から上って真西に沈む。
    赤道上の観測者から見ると、太陽は正午に天頂を通過する。
    北極点または南極点の観測者から見ると、春分の太陽はちょうど地平線と重なるようにして動き、上ることも沈むこともない。
    日本においては、春分の日は国民の祝日となる。
    春分の日は、国立天文台の算出する天文学的春分日を元にして閣議決定され、前年2月に官報で告示される。
    天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい。
    またこの日をはさんで前後7日間が春の彼岸である。
    第二次大戦前は春季皇霊祭として祭日であった。
    ヨーロッパなどでは、春分をもって春の開始とする。
    いくつかの国では休日とされる。
    キリスト教で復活祭の日付を算出するには、春分を基点とし、春分後最初の満月の次の日曜日を復活祭の日と定める。
    この算出方法をコンプトゥスという。
    ただし、ここでいう「春分」は暦の上での3月21日に固定されており、天文学上の春分を含む日とは必ずしも一致しない。
    「満月」も簡素化した計算によって求められており、天文学上の満月とは必ずしも一致しない。
    この算定法は第1ニカイア公会議で定められた。
       

    彼岸
    彼岸
    彼岸(ひがん)とは、煩悩を脱した悟りの境地のことで、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」という。
    「彼岸会(ひがんえ)」は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。
    また、この期間に行われる仏事のこと。
    暦の上では最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」なお、地方によっては最後の日を「はしりくち」という地方もある。
    俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目、六波羅蜜を1日に1つずつ修めるためとされている。
     
    由来
    彼岸会法要は日本オリジナルであり、彼岸の仏事は浄土思想に由来する。
    浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられている(西方浄土ともいう)。
    春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。
    もとはシルクロードを経て伝わった、生を終えた後の世界を願う考え方に基づいている。
    心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)と理解されているようだ。
    しかし後述のように、天皇の詔として仏教思想を全国に広げることを意図して始められた行事であったが、いつの時代も人として、生を終えた後の世界への関心の高いことは同じであり、いつの間にか生を終えていった祖先を供養する行事として定着するに至った。
    彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。
    日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教の頃からつきものなのである。
    仏教語の彼岸は後から結びついたものであるという説(五来重による)もある。
    806年(大同元年)、日本で初めて彼岸会が行われた。
    このとき崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』に記述されている。
     
    供物
    日本で彼岸に供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだ10cm弱の菓子として作られるのが一般的である。
    これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来すると言われる。
     
    きな粉と胡麻
    1271年(文永8年)9月12日、日蓮が鎌倉の龍ノ口の刑場へ引き立てられていった。
    急を聞いた桟敷の尼が、なにか最後のご供養をと考えたが、急であったため餡をつくる時間が無く、きな粉と胡麻をまぶして牡丹餅を作り日蓮に献上したという。
    日蓮は、難を免れ佐渡に流罪となった。
    この故事にちなみ陰暦9月12日、日蓮宗では「御難の餅」という胡麻のぼたもちを作って供える。
    また「難除けぼたもち」「首つなぎぼたもち」などと呼ばれている。

    不倫
    雛祭り
    雛飾り雛祭り(ひなまつり)は女の子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。
    ひいなあそびともいう。
    桃の花(一重咲き・淡紅色)日本では和暦(太陰太陽暦)の3月の節句(上巳)である3月3日(現在の4月頃)に行われていたが、明治6年(1873年)1月1日の改暦以後は一般的にグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なう。
    しかし一部(主に東北など積雪・寒冷地)では引き続き旧暦3月3日に祝う(新暦4月3日に祝う所もある)。
    旧暦では桃の花が咲く季節になるため桃の節句となった。
    男雛と女雛を中心とする人形を飾り、桃の花を飾って、白酒などの飲食を楽しむ節句祭り。
    関東雛と京雛では男雛と女雛の並ぶ位置は逆。
    本来「内裏雛」とは雛人形の男雛と女雛の一対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤りは童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から一般化している。
    三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形を「供揃い」という。
     
    歴史
    日本の雛祭りはいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。
    日本での起源は平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存しており、もとは京都のものであったと推測される[要出典]。
    その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。
    しかし、それはどこまでも「遊びごと」であり、決して儀式的なものではなく、そこに雛あそびの名称の由来がある。
    これが江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。
    この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。
    もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。
    その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。
    江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。
    その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。
    この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。
    しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。
    江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。
    この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。
    不倫との関係性を考える必要があります。


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